事業のもとのもと

私は仕事をするときはその企業の創業からの歴史から知りたいと思ってしまう質でして。


以前、とあるセメント会社と仕事をしたときも、歴史を重ねた工場を繰り返し見学させてもらうことはもちろん、創業の地を訪ね、創業者の評伝も読み漁りました。そのセメント会社の創業者は京浜工業地帯の父であるwikipedia:浅野総一郎でした。


浅野総一郎は資源再生王とも言われ、コークスやコールタールを引き受けて再利用して何でも商売に結びつけてきました。その浅野総一郎の一大事業がセメント事業です。当時官営で経営が行き詰まっていた深川のセメント工場を渋沢栄一の力添えもあって払い下げてもらい、必死に働き、日本の国土を形づくり、近代化を支えました。


いまでも深川にはセメント工場が残っており、石碑も建っています。浅野総一郎がセメント王であることは間違いがないのですが、先日ひょんなことからセメント製造の先鞭を知りました。浅野総一郎がセメント工場を払い下げてもらう前に、日本で初めてセメント製造に成功した人の話です。


その人は宇都宮三郎さんという方です。1875年にセメントの国産化に成功しました。この宇都宮さん、すごい方で、耐火煉瓦も開発、日本で初めて生保に加入し、化学という言葉をうみだした人です。ややこちらにも解説→Lococom -みんなでつくる街の情報サイト-


加えて宇都宮さんは日本で初めて死後解剖を願い出た人だと島抜け (新潮文庫)に収録されている「梅の刺青」に書かれています。


一部内容をまとめさせてもらうと。
化学の研究に専念していた宇都宮鉱之進(三郎)は、維新の戦乱に幕府軍の一員として参加していましたが、原因不明の病気におかされ、関節の激しい痛みと手足の腫れで歩けぬほどの重症だったそうです。死期が迫ったのを感じ、化学者らしく自分の変質しているであろう骨を解剖して調べて欲しいという望みをもつ。国に報いることなく死ぬのが口惜しく、せめて死後、自分の肉体を「後進医学修業の一助にも用立」て欲しいと申し出たそうです。いかにも学問を身につけた合理的な考えであり、明治以降の新しい時代にふさわしい知性を感じた人もいたそうです。


その後奇跡的に病気が回復し、解剖には至らず、数々の偉業を残す化学研究の元勲として69歳で亡くなったそうです。日本の医学の進歩に寄与する解剖についての物語「梅の刺青」、とても興味深いのでぜひオススメします。タイトルの「島抜け」もおもしろいです。


それにしても、松下幸之助本田宗一郎など事業を拡大させた企業家たちの評伝は山の数ほどあるのですが、その原点ともなる化学者達の物語は日本では少ないように感じます。平賀源内くらい?(笑)高峰譲吉がいるか。ちょっと企業家物語から離れて、化学者物語の方向に進んでみようかと思います。