「斬」綱淵謙錠, 文春文庫, 2011年(新装)
環境が極めて流動的で、自らの存在の希薄さに幻滅しそうな恐怖に苛まれる弱気を必死に諌める日々を過ごしている人が多いと感じる。
「斬(ざん)」を読んで欲しいと思う。
著者はあとがきで「わたくしはなにかにじっと必死に耐えている人々に読んでいただきたいのである。」と書いている。 さらに言う。「国家に傷つき、社会に傷つき、隣人に傷つき、友人に傷つき、父母に、子供に、恋人に傷つき、それでもなおなにかを信じてじっと耐え忍んでいる方々である。その耐え忍びのために心の臓からしたたり落ちる一筋の血の色が、この作品の血のいろどりと重なり合って同じ色であることがわかっていただけたなら、わたくしのこの作品を書いた意図は十分に報われたといえるであろう。」
巻末で西尾幹二は「この小説は封建体制から近代社会への移行期を、いいかえれば人間が血や行為に直接的であった時代から、全てが間接化して行く文明社会への移行期を、特異な題材と視点とをもって描き出した力作である」と解説している。
「間接化」は拍車がかかる一方であり、毎日が「社会の移行期」とも言える平成24年、全ての人が「耐えている」ように私は思える。
著書が「じっと必死に耐えている人々に読んでいただきたい」と言っているものの、耐えるだけではない生き方を主人公に語らせている。「江戸が東京に変り、御一新の風が強く吹いたとき、新しい時代の波に乗り移るために、すべての人間が必死になった。今までの職業を新時代にどのように適応させるか、ということであった。」
「必死に耐える」だけではない「必死に乗り移る」方向性が浮き彫りにされる。「耐える」ことに「必死に」なり、「乗り移る」ことに「必死に」なり、その分別をすることで、江戸から明治へ移行し、国力を高めてきたことがよくわかる。
移行期に「必死に」なれば、これからも日本は世界に誇れる国と人でいられるのではないか。
そうなれば、「死にざまの立派であった人間だけが傑いのだ」という主人公の人間評価法に適う生き方ができるはずだ。自分の納得のいく死にざまのために今を「必死に」生きてやろうじゃないか。